土地探しの話し
以前住んでいた賃貸の家を探すとき、私は理想の条件を紙に書きました。
緑
安全
静か
落ち着く、、、
その時の予算では、いい条件のものは少なく、
けれどどこがで見つかるだろうという気持ちがありました。
しかしやはりペット可の物件がそもそも少ないなかでの部屋探しは難しく、かなり妥協しなくてはならないかもと不安になりつつも、
どこかで信じていました。
そして、かなり面白い物件、外国の方の別荘を借りるというものをみつけ、築が古く落ち着く雰囲気の家を借りることができました。
家まで続く緑の小道のあるとてもステキなおうちでした。築が古いので家賃も安く、ドアがガタピシいったりしたけど、わたしにはそれも温かく古く感じたのです。
その時の経験をいかして、今回も理想の土地を引き寄せようと思いました。
けれどその時のわたしにはまだ、理想の土地のイメージが足りなかったのです。
静か、みどり、庭
の他には広さも場所も、、、イメージ湧かず
やはり欲しいものがわからないと
引き寄せようがないのかもしれません。
すすめられたものをみてもイマイチピンとこず、当然行き詰まりました。
長くなりますのでまた次回に続きます。
私が家を建てた話
転勤族の夫と結婚し、娘が2歳の時に新宿にマンションを買いました。
嬉しくて、ワクワクして、
窓からは都会の夜景が見えて綺麗でした。
なのに、数日たったとき、
ここは私の居場所じゃない、と強く感じました。もともと田舎育ちの私。
肌に合わないという感覚でした。
大金をだして買ったマンション、
もう取り返しがつかない。
そう思い、こんなステキな場所を居場所じゃないと考えるなんてわがままだ。
と自分を矯正しようと頑張りましたが
無理だったのでしょう。
なぜか、購入一年半で、次の土地への転勤が決まり、結局そこに戻ることはありませんでした。
誤解のないように言うと、わたしには合わなかっただけで、いいところだったと思います。
いい出会いもたくさんありました。
でも、なんか違う!と言う気持ちが消えず
転勤をきっかけにその地を離れ、
数年後、夫には私はあそこに戻りたくないと伝えました。
夫はどう思ったかはわかりませんが、
長い間賃貸に出したあと、売却となりました。
転勤は続き、私たちは歳を重ね、
賃貸での暮らしも続きました。
もう、今世の私には家を持つと言う経験はないのかなと思っていましたが、
今年家を建て、新居に引っ越してきました。
土地探しについては、引き寄せの法則、願望実現に近いものがあると思うので、次はこの経験について書きたいと思います。
自分を許す
引き寄せの法則と言われるものにも
ホントいろいろあって、自分の中で取り入れてみたり、頑張ってやってみたり念を送ったり。
それで疲れ果ててみたりしてたな(笑)
それは逆効果だったんだろうけど、
そこまでその願いが叶えたかった当時の自分をよしよししてあげたいような気持ちにもなります。あー、泣きたかったよね、自分。
だって本当はその願いをもつことすら許されないと思っていた、いる、のだものね。
今もまだわかってるわけじゃないんだけど
少しずつ自分の中に理解が溜まっているような気もします。
自分の願いは強いのに、自分の願いを叶えない、叶わない、叶えちゃいけない、叶ったら何だかわからないけど怖いことになる。
そんなアクセルとブレーキを全力で両方とも踏みすぎて疲れ果ててたって気づいたのです。
たとえば、働くことに関していえば、
もともと働くことにネガティブなイメージがあり(幸福な働く人をみてこなかった)
せっかく専業主婦になった当時も、罪悪感で家事を頑張らなくちゃいけないと思い込み、できない自分を責めていたこともあったなー。
結局子どもができるまでは、派遣の仕事についてました。
専業主婦になったら、あれもしたいこれもしたいと思っていたのに、なんかザワザワしてどれも楽しめなかった、、、罪悪感だったんですね。
今思えば、まず自分の、働くことに対する誤解を解くのが一番先だったなと思います。
働きたくないのに無理に働いている父。
そんな父に落胆し、自分が頑張らねばと身を粉にして働く母。
そんな母に罪悪感を感じそれを母に投影して、働く母を否定しつづけた父。
一生懸命働いているにも関わらず、認めてもらえない母。
楽しく働いている大人のロールモデルも
幸せな結婚のロールモデルも
子どもの頃の私の周りにはなかったなー
だから、夫もそうだと思ってた。
働くの楽しい人なんていないと思ってたから。
だから罪悪感だったんですね。
笑っちゃうのは、夫、仕事好きなんです。
やらされてるわけでなく、家でもいろいろ仕事のこと考えてるのが好きなんです。
それを私は信じられなかったんです。
で、勝手に夫に引目を感じ、責められてると感じ、私に我慢しているんだろうなあ、私だけズルいよね、ごめんなさいって思い込んでいたわけです。
そして自動で自己肯定感もさげ、働かず役に立ってない私は無価値となるわけです。
おー。わかりやすい。
いろんなブロックありますね、私。
しかし私は大人なのです。
大人の良いところは、自分を再教育出来ることだって、大好きな武田双雲さんが言ってました。
これを外したら、他にもいろんな自分への懲役刑を許せたら、もっと自由に生きられる。
そう思うととても嬉しいのです。
自分をどう思っているか
空を映す忍野八海 魚になりたい!
毎日相変わらずいろいろYouTubeみてます。
世界は広く私の小さな小さな世界の思い込みや、制限をわからせてくれる。
この世界には自分だけしかいない。
全ては投影である。
他人は鏡、
いろんな言い方はあるけど、最近もしかしてこういうことかなって思うことがある。
もし他人に嫌なことをされたら
例えばオットにつまらないことで小言を言われたりしてムッとする。
今まではオットの人間性(笑)に原因があると思い、影でむすめに愚痴っていた。
でもふと思った。
もし自分しかこの世界にいないとしたら、
自分に小言を言っているのは自分ってこと?
自分をそんなふうに扱わせてるのは自分ってこと?
そう思ってから、オットに嫌なことされるたびに、まだまだ私も自分を大切にするのが足りてないな、自分を責めたり、無理させたり、価値がないと思っているのかな?と考えて、
その都度自分を大切にしよう!と心がけている。
するとここ数日、いい感じ。
ふむふむなかなか面白い。
この実験はしばらく続けてみようと思っています。
ちなみに私の自分の大切にする方法は、
嫌なことはしない!
やりたいことはなるべくやらせてあげる。
無理をさせない。
労る。
などです。
今日も読んでくださりありがとう😊
一緒に心の旅、しましょうね!
自分を許せてる?
オレ9歳!食いしん坊万歳!
最近ずっとYouTubeばっかりみてます。
皆様どうしてこんなにたくさんの有益な情報をくれるの?
おかげで料理のレパートリーも増えて楽しくできています。簡単なのばかりだけど。
ここ数年、心理学、NLP、スピリチュアルなどさまざまな本を読んだり、ネット上の情報などを読んできました。
たくさんのたくさんの情報を見ているうちに、結構言ってることに共通点があるんだなーって気がついてきました。
もちろん違うところの方が多いのかもしれないけど、もしかしたらその共通点が大切なことを言ってるからなのかもしれない、と思うようになりました。
自分を大切にする
自分に集中する
自分を許す、、、
今日はこの自分を許すについて私なりの今の時点での考えを書いてみようと思います。
数ヶ月ほったらかしだったこのブログ。
見てみたらあらま。
許すって書いてある。
けど、許せてる?ないよね?
そう思うのは最近慈悲の瞑想をしたときの経験があったからです。
慈悲の瞑想、私も詳しくはないのですが、
誘導のナレーションに従って、自分、大切な人、苦手な人、そして生きているもの全ての幸せを祈る瞑想です。
大切な人を思い浮かべて、その人の幸福を祈ると、涙が出てきて自然と強く相手の幸せを祈れるのですが、これ、自分のパートになったときの違和感ときたらもう!
新鮮な驚きでした。
湧き上がってきたのは
『えっ、自分で自分の幸せ祈っていいの?』
という感覚でした。
自分よりまず人。
人のことをまず考えなさい。
昭和のオンナらしい教育ですね、、、
それがどっぷり染み込んでいるわけです。
そして、自分の健康、願い、とナレーションに従って自分のために祈っていると、感情がたかぶっている訳でもないのに、滂沱と滝のように流れる涙が、つるつるつるつる顔を伝ってくる。
悲しくないのに?壊れた水道みたいに流れる流れる。
そして、嬉しかった。
自分の幸せ祈っていいんだーって気がついたから。
そして衝撃。
こんなにも私は許してなかったのか
自分の幸せを願うことを。
神社に行くと必ず願いをお祈りしていたのに。
願いを叶えるために、いろいろすごく自分なりに努力してきたのに。
自分を許せてる、いや、大切にそこそこできるようになってきたと思ってきたのに。
自分を許すって、かなり奥が深い。
そう気づいた経験でした。
そして、もっと自分を許してあげたい、と
思えるようになりました。
もし興味があったら、慈悲の瞑想
ぜひ試してみてください。
私は、YouTubeの、ココイマさんの慈悲の瞑想が好きです。
https://m.youtube.com/watch?v=lLo0HzRlP5s
こんな私ですが、一緒に心の旅、しませんか?
読んでくださってありがとうございます。
私の疑問
数年前、人生をまるっきり考えなおさせられるような出来事が強制的に起こり、
荒波に揉まれるように溺れて溺れて
最近ようやく平穏な気持ちになれるようになってきた。
私がどうしても叶えたかった願いは、
物質的なものだけは叶い、
今私には望んだ通りの家と庭がある。
それはとても感謝していることなのに
なぜ私の願いは叶わなかったのかという疑問と、無力感が残っている。
あまりにも恐れて執着していたのだろうか。
所詮わたしたちは無力なのだろうか。
それともそれは最善ではなかったのか。
では最善とは誰が決めるのか?
神なのだろうか。